編集部:人工知能(AI)が入れられる器の形は、文化圏によって異なります。AIの概念面・技術面の発展と、AIの形の相互作用はどのようなものでしょうか。
ベッヒェレ:AIの形と発展を明確に区別するのは簡単ではありません。技術開発のスタート時には常にひとつのアイデアがあります。あるいは少なくともその技術がどのような機能を持ち、どのような効用があり、より一般的に言えばどのような意味を持つか、あるいは持つべきかに関する大まかなイメージがあります。特に人々が「革命的」と呼びたがるような技術開発、つまり、「新しい技術」と想定される技術開発の場合は、特定の技術を見越した文化的背景がすぐに念頭に浮かびます。いわばフィクションとして開発され試行されたさまざまなコンセ
プトが科学的イノベーションや研究開発目標に変換されるのです。コンセプトのヒントは漫画、映画、テレビなどの大衆文化からも得られます。また、政治、ジャーナリズム、宗教、倫理などの文脈で討議される未来シナリオの諸相も、特定技術の周辺に存在するイマジネーションを構成します。
編集部:AIに対するそのようなイマジネーションおよびAIの形は、AIに関する政治的・社会的ディスコースにどのように影響しているのでしょうか。日本およびドイツを例にお答えください。
ベッヒェレ:政治的・社会的ディスコースにはAIから連想される希望、チャンス、危険性をできるだけ多くの人が可視化できるようにし、理解させるという重要な社会的役割があります。重要なのは、議論の場を設けることです。すなわち、イマジネーションは研究開発に影響を及ぼすだけでなく、政策決定の指針、ニュース報道の指針、世論の指針でもあるのです。したがって、イマジネーションは単なるエンターテインメントではなく、テクノロジーの現実を形づくる本質的要素なのです。これは、とりわけAIに該当します。と言うのも、AIから連想される技術がヒトの知能に似ているのと同時に、ヒトから独立し自律した知能であり、ヒトと同等かあるいはヒトを上回る知能であると想像されるからです。そして、AIとヒトの間の協力関係から競争関係まで、すべての問題を解決するAIから人類の滅亡をもたらすと懸念されるAIまで、実に多彩なファンタジーが喚起されるのです。イマジネーションを国別に見た場合、特定の広範囲のディスコースや利害関心から切り離して理解することはできません。たとえば、いわゆる Japanese Robot Culture( 日本のロボット文化)はロボット開発者や企業の自己理解を反映しているだけではなく、日本政府が「産業立地日本」に資するキーワードとして意図的に政治ブランディングに使用したのです。そして、ヨーロッパはこのキーワードを喜んで受け入れ、「日本人から何を学べるか」、あるいは「日本のどのような動きに気をつけるべきか」と言ったことが取り沙汰されるようになったのです。日本のロボットをテーマに講演をすると、「日本では感情を持たない冷たい機械に看護や介護を任せているそうだが、ドイツでもそうすべきか」という質問をよく受けます。これは、相手との境界線を引こうとする行動であり、修辞的な質問にすぎません。この場合、日本のロボットは、日本人にとっても欧州人にとってもなにか特別な存在であり、双方にとってその目的を果たすのです。
編集部:ヒューマノイドロボットに対する日本と欧州の考え方を比較研究されていますが、AIの「人間性」は各々のディスコースにおいてどのように定義されるのでしょうか。日独間でコンセプト面での本質的な違いが確認されましたか。
ベッヒェレ:日独比較研究においては、「極東にあるエキゾチックな国」について誰もが聞いたことのあるエピソードを復唱するようなことがないように気をつけなければなりません。とりわけ、研究者自身が欧州の目で日本を観察する際は注意する必要性があります。たとえば、人工物に対して日本人が抱く思いを説明するのに神道を引き合いにだすことが多々あります。たとえば、「日本人は万物に霊があると捉えているので、ロボットであってもヒトであっても大差ない」といったエピソードです。このような型にはまった考え方は単純すぎると思います。もちろん、日独比較では思想史における極めて独自の文脈を考慮する必要性もありますし、ロボットに向き合う上でのさまざまなパターンも確認できます。それは、ロボットに関するイマジネーションだけでなく、ロボットとのインタラクションにおいても然りです。あるロボット開発者が、「自分の作ったロボットをプレゼンテーションする場合、相手によってプレゼン方法を変える」と話していました。「日本人はロボットとのインタラクションをとりわけ楽しむが、ヨーロッパ人はロボットがそれほど利口でもなく、意識も感情も持っていないことをロボットおよびロボット開発者に対してできるだけ早く立証しようと躍起になる」と言うのです。このような無意識な反射行動は、ヨーロッパの人間観に起因するものと思われます。すなわち、「ヒトは理性的で、知覚能力があり、不可分の存在であると同時に自律性と独自の意識を持つ特別な存在である」という人間観です。ヨーロッパで散見されるロボットに対する恐怖心や不安感の多くは、この特殊な人間観に基づいていると思われます。こう考えると、日本の方のほうがよりインクルージブ(包括的)で、人間の無比性にさほど固執していないように思われます。このような、さまざまな意味レベルの存在は、研究者にとって大きな課題となります。それぞれの文化においてAIは何を意味するのか。どのような解釈が意図的に打ち出され、どのAI像が誰にとって、どのように役立つのか。これを見極め、その際に研究者自身が文化の相違を構築しないでいることは、簡単なことではありません。
編集部:長井先生はニューロインテリジェンス(知脳)の研究者としてロボットのコグニション(認知)、そしてまた人間のコグニションを取り上げておられますが、具体的な研究テーマを教えてください。
長井:私の研究目標は、計算論的アプローチから人の認知機能の発達原理を理解し、それに基づいて発達障害者のための支援システムを設計することです。人は生後数年の間に環境認識や運動生成、協調行動などのさまざまな認知機能を獲得しますが、脳や身体がそれをどのように実現しているのかは明らかではありません。近年、研究が加速している人工知能と比べて、人の知能はオープンエンデッド(途中変更可能)という特徴を有し、複数の認知機能を協応的かつ連続的に獲得しながら個人や集団としての多様性も生み出しています。私は、こうした認知機能の連続性や多様性がどのような神経基盤に基づいて生まれるのかを、人の脳を模した神経回路モデルと、それを実装したヒューマノイドロボットを用いた学習実験で検証してきました。こうした研究が、これまで経験則や事例ベースに頼っていた発達障害者支援にも役立てられると考えています。
編集部:人間のコグニションとロボットのコグニションは相関関係はどのようなものでしょうか。先生の研究を通じて、驚くべき発見が得られましたか。
長井:これまでの研究で特筆すべき成果のひとつは、認知機能の発達を、脳の「予測符号化」理論に基づいて統一的に説明したことです。脳は「予測する機械」と考えられており、ボトムアップな感覚信号と、過去の経験や知識に基づく内部モデルからのトップダウンな予測信号を統合し、これらの信号の誤差(予測誤差)を最小化するように環境認識や行動生成をすると言われています。私は、この予測誤差の最小化過程を通して自己認知や模倣、利他的行動などの認知機能が獲得されると提案し、神経回路モデルを用いたロボット実験で実証しました。また、感覚信号と予測信号を統合する際のバランスが偏ることで自閉スペクトラム症などの発達障害が生じる可能性も見出しました。これらの成果は、連続性と多様性という認知発達の二つの側面が、予測符号化理論に基づいて統一的に説明できることを示しており発達(障害)研究に重要な示唆を与えています。
編集部:テクノロジーの進歩にともない、人間とロボットの関係はどのように進化していくのでしょうか。
長井:人の認知機能を再現する人工知能やロボットを開発することで、人の知能とは何かをより深く理解し、人とロボットのそれぞれの多様を生かした共生社会が実現できると考えています。1990年後半にニューロ・ダイバーシティの概念が提案され、発達障害を治療の対象とするのではなく、神経基盤の正常な変化として現れる個性と捉えようとする考えが広まりました。一方で、人がどのような個性を持つのかを評価するのは難しく、特に発達障害者では自己の認知特性でさえも正しく理解するのは困難であると言われています。こうした問題に対してロボットが人のように発達・学習し、人の認知特性を鏡のように再現・獲得することができれば、ロボットの知能を介して人の知能を理解することができると考えます。このような人工知能技術が発展することで、人とロボットのそれぞれの個性を生かした共生社会が実現できると期待します。
2021年6月発行のjdzb echo No.138のテキスト
写真: © 草間 弥生