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ベルリンの東60キロメートルに位置する小さな町ヴリーツェン市(人口約7600人)と同市とは比較にならない程大きな町八王子市(人口約57万8000人)との間に、なぜ友好交流協定が締結されたのでしょう?実は、この二つの市は医師・肥沼信次によってつながっているのです。1908年(明治41年)に八王子で生まれた肥沼は1937年に日本政府の国費留学生としてドイツにわたり、1946年(昭和21年)にヴリーツェンで亡くなりました。 |
ドイツに留学した最初の数年間はベルリン大学(現在のフンボルト大学)医学部で研究に打ち込み、博士論文を執筆していた肥沼ですが、第二次世界大戦が勃発、その後1945年にドイツ帝国が降伏する直前には日本大使館より在留邦人として帰国勧告を受けていました。 |
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毎年3月8日の肥沼の命日には墓前参り、2018年 |
肥沼と働いていたヨハンナ・フィードラー(Johanna Fiedler)さんとカーステン・イルム(Karsten Ilm)ヴリ―ツェン市長、2018年 |
肥沼信次博士顕彰碑 © Dr. 肥沼の偉業を後世に伝える会 |
1944年末の日本大使館への連絡を最後に肥沼の消息が途絶えていたため、行方不明のまま死亡したものと肥沼の家族は考えていました。それが、1990年代初頭に日本の新聞に肥沼に関する記事が掲載され、その記事を読んだ弟が兄の消息について知ることになります。すでに高齢であった弟ですが、兄の墓参りをするために1994年にヴリーツェンを訪れ、兄との感動の再会を果たしました。 |
1990年代に入ってから、八王子とヴリーツェンの市民レベルでの交流は活発なものとなります。2017年7月10日に両市の間で友好協定が締結されるとその絆はさらに深まりました。いくつか具体例を挙げますと、2009年の聖ヨハニタ―高等学校(ギムナジウム)と八王子高校の姉妹校提携、ヴリーツェン市シュッツェン広場における画家・横尾龍彦とヴリーツェン生まれの彫刻家・アクセル・アンクラム(Axel Anklam)共同制作の肥沼記念碑建立、オーデル川の三角州における肥沼の名を冠したビーチバレー大会の開催(毎年)などがあります。また、ヴリーツェン市内では八王子市から贈られた桜をいたる所で目にすることもできます。さらに、ヴリーツェン市議会は現在「肥沼信次通り」の設置を検討しています。 |
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両市間の高校生交流は、日独高校生交流「たけのこプログラム」(2005年~2013年にベルリン日独センターが運営)から助成金を受けて実施されたものです。今年の初夏には八王子から市民の方々を迎え、伝統的な「オーデル川堤防祭り」に参加してもらう予定でしたが、コロナ禍のために2度目の延期を余儀なくされました。 |
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聖ヨハニタ―高等学校の校長(当時)と八王子高校の生徒 ベルリンの日本国大使館にて、2016年8月 © K. S. Schmidt |
これまで日本ではあまり知られていなかった肥沼ですが、今では肥沼を題材とする絵本が何冊も出版されており、川西重忠著『日独を繋ぐ“肥沼信次“の精神と国際交流――八王子の野口英世ドクター・コエヌマを知っていますか』(2017年)も刊行されました。また、ドキュメンタリーをはじめとするテレビ番組の放映や雑誌などに多数の記事が掲載されたこともあり、日本でも近年知られるようになりました。 |
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著者紹介:カトリン=スザンネ・シュミット(Katrin-Susanne SCHMIDT)――日独交流の懸け橋をわたる人 |
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肥沼信次博士顕彰碑前にて 前列左端から著者、ヴリーツェン市長(Uwe SIEBERT)(当時)、市議(Wolfgang SKOR、Nils NESTLER)、後列は「Dr. 肥沼の偉業を後世に伝える会」のメンバー、2017年10月 @ Nestler |
著者(右端)と「Dr. 肥沼の偉業を後世に伝える会」のメンバー |
訳・ベルリン日独センター |
肥沼信次――ヴリーツェン市の名誉市民となった医師(リレー❤︎エッセイ 日独交流の懸け橋をわたった人)
ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。