ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。
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ロルフ・アンシュッツ |
今回私がロルフ・アンシュッツ(Rolf ANSCHÜTZ)に関するエッセイを執筆することは、奥様のザビーネ・アンシュッツ(Sabine ANSCHÜTZ)さんの協力なしにはあり得ませんでした。そして、このエッセイをここまで充実した、信頼に足る内容にすることも叶わなかったでしょう。 ドイツ民主共和国(DDR)で一党独裁政権を敷いていたドイツ社会主義統一党(SED)の政治的ドグマのひとつは、資本主義の所有権を嫌う社会主義に基づく社会秩序でした。そのゆえ、DDRの小売業や飲食業のほとんどがHOと呼ばれる国営小売企業となっていました。そのため、ロルフ・アンシュッツはチューリンゲン州ズール市にある国営レストラン「ワッフェンシュミード」(Waffenschmied、武具師ないしは刀鍛冶)を経営していました。このレストラン名はズール市が歴史的に狩猟用具の産業で知られているところからきています。当時アンシュッツはチューリンゲン州飲食店連盟の会長も務めていました。 |
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アンシュッツはなぜ今日、日独の懸け橋を築いた人物(ないしはわたった人物)とされているのでしょうか? 生前は違ったのでしょうか? もちろん、アンシュッツは生前からレストラン経営者として、さらには日本DDR友好協会の会長として日独の懸け橋を築いていました。 |
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私の記憶では、とりわけ次のようなエピソードがそれを物語っています。1969年から1970年にかけて日本人化学者たちと約七ヶ月一緒に働く機会がありました。そのときの化学者の一人が「DDRのどこかに和食レストランがあると聞いたが、それがどこなのか、名前すらも分からない」と教えてくれました。長年そのことをすっかり忘れていたのですが、何年も後に初めて「ワッフェンシュミード」を訪れたときに、それをふと思い出しました。アンシュッツが和食をつくり始めたのは1966年2月で、「和食レストラン」のことを教えてくれた日本人化学者はそれ以前にはDDRを訪れたことはなかったので、アンシュッツが「和食レストラン」を開店させてから3年で、日本にまで同店の情報が届いていたということになります。それは、特筆すべきことではないでしょうか。 |
もしかしたら、1966年に日本人として初めて「ワッフェンシュミード」で食事をしたハヤシ・ムツミ博士が「ズール市に和食を提供するレストランがある」という情報を日本に持ち帰ったのかもしれません。今やこの仮説を証明するすべはありませんが可能性として考えられることです。 |
ハヤシ・ムツミ博士(左から三人目)
このとき、ハヤシ博士はアンシュッツに日本酒を一瓶贈ったのですが、この酒は今日まで未開封のまま、現在は「ワッフェンシュミード」のオリジナル食器、日本人客からの贈り物、そしてアンシュッツが着ていた和服とともにライプチッヒの「コンテンポラリーフォーラム」に展示されています。これらの展示品は、アンシュッツ夫人がボンの国立歴史博物館に寄贈したものです。 当初「ワッフェンシュミード」ではアラカルトで料理をだしていましたが、次第に懐石風のコースをだすようになりました。コース毎にどの地方の料理なのか、どの季節に食される料理なのかといった興味深い説明がありました。 1977年には、そうした食事のサービスに加え、食事前に約40度のお湯に浸かることのできる日本の温泉旅館のような風呂の設備ができました。これをきっかけに「ワッフェンシュミード」はヨーロッパ唯一の本格的な日本料理店となったのです。 「ワッフェンシュミード」の人気は高まり、予約は「2年待ち」という状況になりました。1993年の閉店までに「ワッフェンシュミード」を訪れた人の数は100万人以上に上り、大使や外交官を含む多くの日本人客、DDRの主要な政治家、東西ドイツ統一後にはヘルムート・コール(Helmut KOHL)首相も同店を訪れました。 |
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1966年2月12日開店初日の客 |
コール首相と握手するアンシュッツ |
当時、駐ドイツ民主共和国日本国大使だった中尾賢次は、「ワッフェンシュミード」での歓待に感謝する直筆の手紙をアンシュッツに送っています。 また、残念ながら出典不明ですが以下の文面を読んだこともあります。
その後、アンシュッツの日独友好関係に対する功績や日本文化を広めた貢献が日本政府から認められ、日本へ招待されることとなり、DDRのお墨付きを得て日本訪問が実現しました。 さて、私自身のアンシュッツとの交流は「ワッフェンシュミード」と直接関係するものではありません。私も10回ほど「ワッフェンシュミード」を訪れたことがありますが、残念ながらそこでアンシュッツと会う機会はありませんでした。 初めて彼に会ったのはそのずっと後の「ワッフェンシュミード」閉店後のことです。 それは、1993年6月に「ワッフェンシュミード」での最後の宴会が催された翌朝、アンシュッツがオーバーホーフ市に新たに開いた日本風ホテル「サクラ」でのことでした。 このホテルについてはNHKも詳しく報道し、アンシュッツが料理人兼レストラン経営者として日独友好のために惜しみない貢献をしてきたことに敬意を表していました。 その後、アンシュッツと私は日本国総領事館や2000年以降は日本国大使館で開催されるレセプション、たとえば天皇誕生日祝賀レセプションや全国独日協会連合会の年次総会などで定期的に顔を合わせる機会がありました。そのため、私たちは数年来のいわば「仕事仲間」になっていました。というのも、アンシュッツはオーバーホーフ市の、私はハレ市の独日協会会長になっていたからです。このようなさまざまな交流を通じて、私とアンシュッツとの関係はやがて家族ぐるみの付き合いへと発展していきました。 多くの記録や資料から、アンシュッツがいかに日本文化を広めることに尽力したかは明らかであり、彼こそが文字どおり日独の懸け橋を築き、懸け橋をわたった人物であることは間違いないでしょう。その一例として、アンシュッツと交流のあった日本人が書き記したものをここに紹介します。 イズイ・ヒロカズは『Besuch in Ostdeutschland』(東ドイツ訪問記)のなかで「ワッフェンシュミード」における入浴や宴会の流れなどを紹介しています。 客は到着すると洋服を脱いで「着物」に着替えるように促され、浴室に案内される。 男性も女性も一緒に入浴していることから、ドイツ人は自分の裸体にはかなり無頓着と思われる。 宴会ではさまざまな料理が運ばれてくる。一品目は焼き鳥。客は歓談しながら、舌鼓を打つ。 |
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日本式の風呂(「ワッフェンンシュミード」のパンフレットより)
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宴会の一コマ |
記念銘板 |
アンシュッツ没後4年目となる2012年10月14日に、映画『Sushi in Suhl』(ズールで寿司を)がズール市で公開されました。これを契機に「ワッフェンシュミード」のあった建物の正面に取り付けられた記念銘板の除幕式が、同市のイェンス・トライベル市長(Dr. Jens TRIEBEL)とザビーネ・アンシュッツさんによって執り行われました。 アンシュッツはすでに統一前のDDR時代に日独交流に貢献しており、ズール市の名誉市民となるにふさわしい人物でしたが、残念なことにそれは叶いませんでした。長い闘病生活の末、2008年に亡くなりました。 |
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共著者紹介:ザビーネ・アンシュッツ(Sabine ANSCHÜTZ)――日独交流の懸け橋をわたる人
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著者紹介:ゲーロ・ザイフェルト(Gero SEIFERT)――日独交流の懸け橋をわたる人 1993年6月に「ワッフェンシュミード」が閉店するまで、1980年代に10回ほど同店を訪れている。 |
貴重な思い出を語ってくださったザビーネ・アンシュッツさんおよびゲーロ・ザイフェルトさんに感謝申し上げます。掲載写真はお二人からご提供いただきました。
訳・ベルリン日独センター
カバー写真: 日本人研究者一行の来店時、写真中央がアンシュッツ