ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。
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永井さんは1934年(昭和9年)東京生まれ。1958年に東京外国語大学ドイツ語学科を卒業し、当時、女性プロデューサーの採用があった数少ない放送局「ラジオ短波」に就職する。そこで10年以上働いたものの、女性は昇給も昇進もあからさまに遅れるという差別的な現状に嫌気がさし、転職を考える。そして1972年に38歳にしてケルンにわたり、ドイツの公共国際放送ドイチェ・ヴェレの日本語課で放送記者として働き始めるのだ。
このあたりの経緯は、2013年刊行の永井さんの自伝的著書『放送記者、ドイツに生きる』(未來社)に詳しい。そこから引用してみよう。
(ドイチェ・ヴェレのクラウス・アルテンドルフ日本語課長が)とくに「放送局で働いた経験のある女性」であることを評価してくれたことが、私には涙が出るほど嬉しかった。(中略) 新しい職場では大勢の女性たちが、ドイツ人も外国人も、年配の人も若い人も、結婚している人もいない人も、子どものいる人もいない人も、当然のように働いていて、私を勇気づけ てくれた。日本で女性が仕事を続けることに限界を感じ、閉塞感にとらわれていた私は、ドイツでのびのびと息がつけるようになったのだった。私の人生はドイツに来てから本当に始まったという気がする。(27頁)
ドイチェ・ヴェレでは、ドイツ発の日本語放送番組を制作した。最初のうちはドイツ語のニュースやその解説などの翻訳が中心だったが、そのうち「人間を紹介する」仕事をしたくなって、面白い人を取り上げたインタビュー番組を多くつくるようになったという。このリレー❤エッセイで取り上げられた女優・田中路子さんや、映画『Sushi in Suhl』(ズールで寿司を)のモデルとなったロルフ・アンシュッツ(Rolf Anschütz)さんを取材したこともあるとのことだ。
また、永井さんがドイチェ・ヴェレで働き始めた1970年代は、ウーマンリブ運動が盛んだった頃だ。もともと性差別への問題意識が高かった永井さんは、女性の社会的地位向上に関する番組をよく制作した。
ドイチェ・ヴェレの退職送別会
日本語課のアルテンドルフ初代課長も参加
永井さんは27年間にわたって、ケルンにあるドイチェ・ヴェレから日本語で情報を発信しつづけたが、そのあいだに起こった一番大きな出来事といえば、1989年のベルリンの壁崩壊、そしてその翌年の東西ドイツ統一だろう。これにともなって首都機能がボンからベルリンへと移された1999年は、ちょうど永井さんが65歳で定年を迎えた年に当たる。その翌年、永井さんは自分自身の住まいも、第二の故郷だと思っていたケルンからベルリンへと移し、フリージャーナリストとして活動を始めた。
この頃の主な仕事には、NHK「ラジオ深夜便」のベルリン・リポーターがある。統一ドイツの新首都として急速に変化するベルリンの姿や、オペラやコンサートなどの文化的な話題を8年間にわたって日本のリスナーに伝えつづけた。2008年にこの仕事を終えたとき永井さんは74歳。ちょうどラジオ生活50年という節目の年となった。
しかし「ゆっくり引退生活」という発想にならないのが永井さんだ。生涯現役を目指す永井さんは、ドイチェ・ヴェレ時代から定期的に書いていた『未來』(未來社のPR誌)などにドイツ発の記事を送りつづけた。そして、2011年には、また転機となる出来事が訪れた。それは、日本を襲った東日本大震災だ。福島の原発事故を機に、ドイツ政府は段階的な脱原発を決定した。それに対し日本では、これまでのしがらみにとらわれて発想が転換できていないように感じられた。それならばと、ベルリン在住の日本人女性の仲間とともに、日本語でドイツのエネルギー転換の情報を伝えるウェブサイト「みどりの1キロワット」( www.midori1kwh.de )を立ち上げた。
「みどりの1キロワット」は商業媒体ではなく完全にボランティア活動であるが、実はこの原稿を書いている私もまた一時期、このウェブサイトのメンバーだった。メンバーが原稿を持ち寄って話し合う2週間に1回の「編集会議」は楽しく知的な刺激にあふれていた。ベルリンに来て何年か経ちドイツ社会のことをもっと知りたいと思っていた私には、とても勉強になる機会だったし、永井さんの人間的な側面に触れることができた。反骨精神があり社会悪への怒りを隠さず、弱者への思いやりにあふれた永井さん。一方で、おいしいものが大好きで、ちょっとおっちょこちょいなところもある永井さんのことをメンバーはみんな大好きだ。
「みどりの1キロワット」のメンバーは、その後さまざまな個人的理由で入れ替わりがあったが、永井さんは一貫して現在まで健筆をふるっている。「ドイツ政府が決めた2022年までのエネルギー転換がどうなるかを見届けたい」というのが永井さんの口癖だ。
永井さんのキャリアをざっと紹介したが、ここで著書も紹介しておこう。『ドイツとドイツ人』(1994年)、『新首都ベルリンから』(2004年)に加え、先ほど紹介した『放送記者、ドイツに生きる』(2013年)がある(いずれも未來社)。また2019年、85歳の年に、訳書として『奪われたクリムト――マリアが黄金のアデーレ」を取り戻すまで』(エリザベート・ザントマン著、永井潤子・浜田和子・共訳、梨の木舎)を出版した。
いつもエネルギッシュな永井さんを見ていると年齢のことなど忘れてしまうが、永井さんは現在87歳。大ベテランとして後輩ジャーナリストにも温かい目を向けている。
私は、たまに永井さんから聞く「男の子たち」の話が大好きだ。「男の子たち」とは、永井さんが長年親しく付き合っている日本のジャーナリストのこと。大手新聞やテレビ局の支局長としてドイツにやってきた面々だが、立派な肩書きを持つ働き盛りの男性陣が、永井さんにかかれば「男の子たち」になってしまうことに、私はなんだか笑ってしまう。
日本の大手メディアから特派員としてドイツにやってくる記者には、近年女性もちらほらおられるとのこと。かつて「永井さんの目の黒いうちに女性記者が来ることなんかあるもんか」といわれ、悔しく思ったことがあるそうだが、今は「ちゃんと私の目の黒いうちに女性が来るようになったわ!」と、後輩女性の活躍を永井さんは喜んでいる。
そんな永井さんの弱点は、本人いわく「機械に弱くて、技術的なことはよくわからない」ということだが、実のところそうでもなさそうだ。最初は難儀したウェブサイトへの写真アップロードも「やっとできるようになったわ!」という喜びのメールをもらったし、愛用しているのは最新の iPhone だ。先日などは「ねえ、今居さんはLINEやってないの?やってたら写真を送るのが簡単なんだけど」と言われ、つい最近までスマホを持っていなかった私はタジタジとなってしまった。
永井さん、私もその後やっとスマホを買いました。今度一緒に写真を撮りましょうね!
永井潤子さんと著者
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著者紹介:今居美月――日独交流の懸け橋をわたる人 ベルリン日独センター日本語講座講師。1973年、滋賀県生まれ。東京外国語大学英米語学科卒。日本での出版社勤務、英国留学を経て、2009年よりベルリン在住。フリーランス編集者、校正者、翻訳者(日英)としても活動する。 |
写真はすべて永井氏または著者提供