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ヨハネス・シューベルト――シューベルト先生の思い出(リレー♥エッセイ 日独交流の懸け橋をわたった人)

今回のリレー♥エッセイでは上田英里名さんが、高校生の頃から社会人になっても教え子としてお付き合いがつづいたヨハネス・シューベルト師の思い出を綴ってくださいました。

 

ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。/p>

   1933年、その人は、9人兄弟姉妹の末っ子として、オーバーシュレージエンの小さな村で生まれました。現在はポーランドとなっている地域です。兄たちは戦争に行き、父親が亡くなり、小さな坊やは、母や姉たちと厳しい時代を生き延びました。そして、1955年に神の奉仕者として生きる道を選び、1965年に日本に来ました。それから55年間、多くの人々と交わり、多くの仕事を成し終えて、2020年に日本で生涯を終えました。それはその人の希望でした。

   困難に立ち向かう強い意志と勇気を持ちつづけた人、私が初めて出会ったドイツ人で、私をドイツと結びつけてくださったヨハネス=アウグスト・シューベルト先生(神父、Johannes August Schubert)をご紹介したいと思います。

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Johannes Schubert

48歳の新しい校長先生は、眼光が鋭く、成績の悪い生徒は落第させるべきである、と意見を出して、日本人の同僚教師を驚かせました。日本の高校では、成績不良による留年はあり得ません。ドイツのギムナジウムでは落第は普通で、シューベルト先生も進級するごとに、一緒に入学した同級生が減っていったそうです。

   私たち生徒は親しみを込めて、しかし本人のいないところで、「シューちゃん」と呼んでいました。怒られたことのある者は、「靴ひも」(シューズのベルトに由来)と使い分けていたようです。クラスの卒業記念文集制作にかかわっていた私は、忙しい校長先生に、長い文章でなく、「手形」に短いメッセージを添えてくださいと頼みました。指定時間に書道の墨汁と手洗いバケツとタオルを持ってクラスメートと校長室を訪ねると、先生は面白そうに手のひらに墨を塗り、紙に押しつけて手形を写し取り、タイプライターで作成された不思議なメッセージをくださいました。

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Hand and Text

   ハンドパワーの効果を、私はそのとき全く想像できませんでしたが、25年後に先生に再会し、大人の生徒としてドイツ語を習い始めます。

   50代から60代のシューベルト先生の活躍は、周りの人や先生本人から聞くことができました。大学でも教えていた先生は100回以上の研修旅行を企画し、1万2000人以上の学生をヨーロッパやアメリカへ引率しました。それは小さな島国の若者が外国を体験する貴重な機会となりました。先生が知恵を絞り、あらゆる伝手を使い、旅行会社とのタフな交渉を経て実現した安くて安全な旅は父兄にも喜ばれたそうです。チェックポイント・チャーリーを見てきた学生たちは、ベルリンの壁崩壊のニュースに心を震わせたことでしょう。

   健康維持のために、先生はテニスと水泳と温泉(日本のスーパー銭湯)通いとワインを大いに好み、それらをとおして知り合った多くの人と交流を持ち、愛されていました。神父である先生はいつも大勢の信者に囲まれ、とりわけご婦人の間で人気がありました。

   私は卒業してからもドイツへの関心は持ちつづけていました。あるとき、日独協会の友人から、少人数のドイツ語授業に誘われました。ドイツ語学習者の友人は、「先生はシューベルト神父よ。」と言います。驚きました。「その人を知っています!」

25年ぶりに再会した校長先生は、ユーモラスで優しいお爺さんとなっていました。もっとも勉強に対する厳しさは変わらず、ドイツ語聖書と「Der Spiegel」を読んだ後、先生が作った10個の質問に答えなければいけませんでした。単語が分からず黙っていると、先生は私の電子辞書を指さして言います。「あなたの脳は、何と言っていますか?」また先生は毎日 Tagesschau.de や zdf.de を見て、私たちに「今日のドイツのトップニュースを知っていますか?」と尋ねますから、私たちは授業の前にインターネットでニュースをチェックしておく必要がありました。

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Johann Schubert

   ときどきは、歌の時間もありました。先生がフォルクス・リートの楽譜を用意して配り、皆で歌います。先生の一番のお気に入りは「O du lieber Augstin」でした。話が戻りますが、シューベルト先生のお父様は、末息子にアウグストという名前をつけたいと言うと、お母様が、この歌で息子が学校でからかわれると可哀相だから、と反対したそうです。結局、お父様の希望はミドルネームに入り、6月下旬に生まれた子には洗礼者ヨハネの名が与えられましたが、先生は「アウグストさん」と呼ばれることも喜んでいました。

私は、授業のときに、ドイツから届くハーブティーを持参してサービスしていました。お茶を飲みながら、先生からドイツの思い出話を聞くのも楽しい時間でした。興味があれば勉強できるようにと、先生は私に聖ヒルデガルト・フォン=ビンゲンの本をくださいました。今でも宝物です。先生が日本でそうしてきたように、私たちには言葉だけでなく、ドイツ社会の理解も深めて欲しいというのが、授業をとおした先生の希望であったと思います。

2018年の夏をシューベルト先生はドイツの修道院で過ごしました。あとで知ったことですが、それは、お別れの準備でした。友人を訪ねて旧交を温め、視力の衰えた目に故郷の景色を焼きつけて、日本に帰ってきました。それ以前は、ドイツから戻った先生は10歳くらい若返っていましたが、最後の旅の後は、とても疲れているようでした。

   この度、私に寄稿を勧めてくださったベルリン在住のティーテン礼子さんは、私が所属する名古屋税理士会とミュンヘン税理士会の国際交流で通訳翻訳者として常に素晴らしい仕事をされています。私たちは、それぞれがシューベルト先生と繋がりを持っていることを全く知らずに出会いました。

   また、ドイツへの個人旅行の際に現地でお世話になった日本人とは、子どものときに通っていた東京の教会にシューベルトという神父がいたけれど、もしかして同じ人ではないか?という話になって、まったくそのとおりでした。この縁にはシューベルト先生も驚いていました。

   55年間に、シューベルト先生は日本でたくさんの種を撒きました。これからも、シューベルト先生に繋がる人々が出会うことで、日独友好の花は咲きつづけることでしょう。

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UEDA Erina

著者紹介:上田英里名――日独交流の懸け橋をわたる人

 

税理士。名古屋日独協会役員。日本の所得税法はプロイセンの税制を参考にしたことから、ドイツ所得税法に興味を持ち、奮起してNHKラジオドイツ語講座で独学する。「世界中の税金の本の3分の1はドイツ語で書かれている」と聞いて、研究材料が尽きることはないと考えているひとり。ドイツでも楽しめる乗馬を始め、コロナ鎮静後の旅行機会を心待ちにしている。

 

写真はすべて著者提供