メームケン・ユリ子――環境と持続可能性の分野における日独協力に捧げた人生 (リレー❤︎エッセイ 日独交流の懸け橋をわたった人)

ベルリン日独センターとエコス・コンサルティング&リサーチ社は何年にもわたり共同で多くの会議系事業を実施してきました。昨年逝去された同社代表取締役のメームケン・ユリ子氏の想い出を、同社代表取締役のヨハンナ・シリング氏がご寄稿くださいました。

Stadtwerkeberatung in Japan 2018

ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。

異文化間の橋渡しはビジネスにおいても重要である。ここに、環境と持続可能性の分野における日独協力を成功に導くことに人生の大半を掛けた橋渡し役、惜しむらくは早く逝きすぎてしまった人物を紹介する。

メームケン・ユリ子(Yuriko MEEMKEN、旧姓内田)は1956年(昭和31年)に四国高松市に生まれた。東京の田中千代ファッションカレッジ(現渋谷ファッション&アート専門学校)でファッションデザインを学んだ後、1978年にファッションデザイナーとして鐘紡に就職した。これは、鐘紡がクリスチャン・ディオールとライセンス契約を締結し、同社商品を独占販売していた時代(1964年から1997年まで)のことである。1983年にユリ子は鐘紡を辞め、ロンドンで半年間英語を勉強した後にパリの会社でファッションデザイナーとして働き始めた。

1985年、偶然の賜物というべきか、あるいは愛に導かれてというべきか、ユリ子はドイツ・ニーダーザクセン州のオスナブリュック市に転居した。1985年はオスナブリッュク市の経済再生プロジェクト「Entwicklungs Centrum Osnabrück」(オスナブリュック開発センター)がスタートした年であり、その流れのなかで1988年にヴィルヘルム・メームケン(Wilhelm MEEMKEN)が4人の役員とともに Gesellschaft für Entwicklung und Consulting Osnabrück GmbH(オスナブリュック開発コンサルティング有限会社、略称ECOS、日本名はエコス・コンサルティング&リサーチ社)を設立し、その2年後の1990年にユリ子は同社に入社した。それから30年間、ユリ子はエコス社を今日の姿にするために多大な貢献をしてきた。エコス社は今では、特に日独の文脈において市場開拓およびプロジェクト計画の際に民間セクターおよび公的セクターをサポートする定評あるコンサルタント企業およびプロジェクト開発企業として日本でもドイツでも知られる存在となっている。

ユリ子は「日独環境エネルギー対話フォーラム」「日独ソーラーデー」「日独バイオマスデー」など数多くの日独イベントを企画実施し、日本やドイツの専門家が相手国を視察訪問するミッションに同行し、ドイツ企業の日本のパートナー企業やクライアントを個別にサポートしてきた。

とりわけ日独のビジネス関係では多くの「Übersetzung」を必要とすることが多い。ドイツ語の「Übersetzung」には「翻訳」と「川を渡る手助け」の両方の意味があるが、ユリ子は言葉の壁や文化の違いを乗り越えるために忍耐づよく根気よくサポートをつづけた。特にビジネスの現場ではドイツと日本の企業文化、ドイツと日本の「考え方」の違いを取り持つことが度々必要になる。相手側の考え方について繰り返し説明しなければならないのだ。ドイツ側の軽率な、あるいは直接的すぎる発言を取りなしたり、日本側の細々とした質問にドイツ側がイライラしたりした場合には、しばしばトラブルシューターとしてのユリ子の力量が問われたのである。

  

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左から:メームケン・ユリ子、著者、 ヴィルヘルム・メームケン
第10回日独環境エネルギー対話フォーラム(2019年、東京開催)
左から:メームケン・ユリ子、著者、ヴィルヘルム・メームケン

 コンサルタントのおかれる状況は、西洋の諺で「ハンマーとアンビルの間に挟まれる状態」、まさに窮途末路の状態と表現することができるが、ユリ子は日独双方が納得し得るように仲介する術に長けており、この困難な役割を見事に果たした。その一例が、ラインラント・プファルツ州シュパイヤー市における日独共同プロジェクト「スマートコミュニティ実証事業」である。国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成を受けた本プロジェクトは、集合住宅で自家発電した太陽光をスマートなエネルギーマネジメントによって効率よく利用する地産地消型のスマートコミュニテイの実証事業である。2015年秋から2016年4月にかけて企画・施工が行なわれ、2016年5月から2年間の実証実験がつづいた。プロジェクトに参加したのはシュパイヤー電力公社と地元の住宅供給公社のほか、日本からはNTTドコモ、NTTファシリティーズ、日立化成、日立情報通信エンジニアリングが加わった。

ユリ子は何ヶ月にもわたってプロジェクトの企画実現をサポートし、シュパイヤー市の建設現場に何週間も足を運んだ。プロジェクトマネージャー、各施工業者、そしてなによりも集合住宅の住民との直接的なコミュニケーションがとりわけ重要だったからである。シュパイヤー市におけるスマートコミュニティ実証事業は、2016年6月にベルリンのベルビュー宮殿(ドイツ連邦大統領官邸)の庭園で開催された「環境週間」で大々的に紹介された。

 2021年1月、メームケン・ユリ子は長い闘病生活の末に帰らぬ人となった。残されたエコス社スタッフ一同はもちろんのこと、日独の行政機関のクライアントやパートナーもユリ子の能力と、温かく控えめで親身な態度を高く評価してきた。より持続可能な世界を目指して多くの日独協力関係を築いてきたメームケン・ユリ子の貢献を一言で言い表すのは難しいが、いずれにしてもユリ子を「真の懸け橋」と表するのは過言ではないと考える。

写真はすべて著者提供
訳:ベルリン日独センター

Johanna SCHILLING

シリング
ヨハンナ

著者紹介

1992年から1998年までトリアー大学で日本学およびドイツ文学を専攻、文部科学省およびドイツ学術交流会の奨学生として千葉県立大学に1年間留学。2000年1月にエコス・コンサルティング&リサーチ社にプロジェクトマネージャーとして採用され、2006年にプロクリスト(取締役の代理権を有する支配人)となる。2021年に同社代表取締役に就任。