松田智雄――ドイツ経済史研究と日独交流の生涯 (リレー❤︎エッセイ 日独交流の懸け橋をわたった人)

2010年代にベルリン日独センターの副事務総長だった坂戸勝氏は、「趣味は歴史研究?」と思われるほど日独各々の文化外交史や日独文化交流史に造形が深い上司でした。坂戸氏の真髄発揮の寄稿文をお楽しみください!

MATSUDA Tomoo with Family in Lake District, UK

松田智雄は明治44年(1911年)朝鮮の仁川で父義雄、母章(ふみ)の三男として生まれた。父は、前年日本に併合された朝鮮の中央銀行である朝鮮銀行に勤務していた。幼少期を朝鮮で過ごしたことは、後の松田の国際的な関心に影響を与えたものと思われる。東京の私立成城小学校へ入学、成城中学校、同高等学校へ進んだ。前田陽一(後に東京大学教授)、野村一彦(作家野村胡堂の長男)とは小学校時代からの友人で、ともに成城オーケストラ団員であった。松田はチェロを演奏し、後年自宅でしばしば友人との室内楽演奏を楽しんだ。また、少年時代に神戸の六甲山頂で初めてスキーを経験した。自身の言によると、オーストリアの正統派スキーを学んだ由で、以来スキーも愛好した。
    昭和6年(1931年)東京帝国大学文学部西洋史学科へ進学、前田陽一とともに大学の聖書研究会へ入会した。ここで、無教会派キリスト教徒の内村鑑三の弟子であり、また国際連盟事務次長に転出した新渡戸稲造の東京帝大での座を襲った矢内原忠雄(後に東京大学総長)の薫陶を受けた。キリスト教の信仰は松田の生涯を貫くひとつの柱となった。
    この頃、矢内原の紹介で東京帝大経済学部助手をしていた大塚久雄(後に東京大学教授)と初めて知り合っている。この出会いが松田の学問を貫く柱となった。昭和9年(1934年)に卒業し、経済学部へ学士入学した。昭和12年(1937年)に卒業後、東京帝大図書館比較土地制度史研究室で大塚久雄、高橋幸八郎(後に東京大学教授)とともに欧州経済史の共同研究に従事し、ドイツ近代経済史を担当した。この年、胡堂次女瓊子(けいこ)と結婚した。
    昭和13年(1938年)、対中国政策策定に資する調査のため財団法人東亜研究所が設立されたのに伴い、同研究所員に就いた。翌年には香港に数ヶ月研究滞在し、後に『イギリス資本と東洋』を刊行した。昭和15年(1940年)に病で妻瓊子を喪っている。
    昭和17年(1942年)に東京府立高等学校教授となり、胡堂三女の稔子(としこ)と再婚した。府立高等学校では山岳部部長を引き受け、戦時下でもスキーを続けた。また、チェロの演奏も続け、空襲警報下で日本交響楽団(後のNHK交響楽団)などによるモーツアルトのレクイエム演奏に参加したという。

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MATSUDA Tomoo und KATŌ Ichirō
松田智雄と加藤一郎(1969年~1973年東大総長)

    昭和23年(1948年)に立教大学経済学部教授となり、傍ら東大学生のキリスト教社会科学研究会を指導した。この頃、『「近代」の史的構造論』を刊行している。欧州近代の社会経済発展の研究だけでなく、昭和24年(1949年)には長野県北佐久郡の用水村落群の実態についての共同調査を始めた。欧州の自営農民との比較が念頭にあった。また、同年、北佐久郡出身の市村今朝蔵(日本女子大学教授)、軽井沢の別荘仲間の蝋山政道(後お茶の水女子大学学長)と軽井沢夏期大学を開催した。後年軽井沢文化協会会長を務めるなど、生涯にわたり軽井沢への愛着は深かった。
    昭和26年(1951年)東京大学経済学部講師となり、4年後に教授となった。この頃、3年にわたり信州の複数の地で地元民向けの福音学校を開いた。その背景には、欧州近代の経済発展に自営農民の果たした重要な役割を認めていた松田が農民の精神的自立による農村建設を重視していたことがある。また、昭和28年(1953年)から2年間国際基督教大学教授を務めたスイスのプロテスタント神学者エミール・ブルンナー(Emil BRUNNER)に親炙した。松田の信仰心は厚かったが、親しく交わった同じくプロテスタントの大庭治夫(図書館情報大学教授)によると、「人前では余り目立たないクリスチャン・タイプ」であった。
    松田は昭和35年(1960年)秋から1年間、西独のテュービンゲン大学に研究滞在を果たした。テュービンゲンでは、ヴュルテンベルクの19世紀の郡誌などを使って農村地帯の工業化過程を実証的に明らかにする研究に力を注ぎ、帰国後に学位論文「ウュルテンベルク王国の産業発展」で母校から経済学博士号を授与されている。この滞在がひとつの弾みとなり、昭和37年(1962年)には人脈、学閥を超えた「ドイツ資本主義研究会」を設立し、毎年2回の例会開催を推進した。ドイツ滞在中には経済史研究だけでなく、ルターの宗教改革についても一般向けの本を上梓している。
    ドイツ滞在は松田の生活に新たな潤いをもたらした。酒を嗜まなかった松田がワインを楽しみ始め、ヨーロッパ暮らしで覚えた喜びのひとつとなった。テュービンゲンとの縁は音楽面でも活かされた。松田は昭和40年(1965年)から東大の音楽部長も務めたが、翌年には東大音楽部管弦楽団を率いて20日間にわたりドイツとオーストリアを巡回公演し、テュービンゲン大学学生室内楽団とも交歓演奏会を行なった。オーストリアに入ったところ、バスに同乗してきた学生が突然流暢な日本語で話し始め、一同を驚かせた。若き日のヨーゼフ・クライナー(Josef KREINER、後にボン大学教授)であった。クライナーとの交際は後々まで長く続いた。

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MATSUDA Tomoo und seine älteste Tochter SUMIKAWA Midori
長女の住川碧さんと

    昭和47年(1972年)東大を退官した松田は、妻稔子とともに在ドイツ連邦共和国日本大使館公使兼ケルン日本文化会館長としてドイツへ赴き、ケルン西郊の閑静な住宅街ユンカースドルフに居を構えた。同文化会館第二代館長として種々の文化事業を推進したが、重視したのは日独学術交流であった。昭和41年(1966年)から日独間で隔年の持ち回り開催をしていた「日独経済セミナー」のドイツ開催に尽力した他、西田幾多郎と田辺元をテーマに日本人哲学者についてのシンポジウムなども催した。文化面では、ドイツ学術交流会(DAAD)第一回日本人留学生であった東山魁夷画伯をケルンに迎え、東山魁夷展を開催するなどした。ケルン大学法学部のゴットフリート・バウムゲルテル(Gottfried BAUMGÄRTEL)教授などとも親交を深めた。バウムゲルテル教授は同大学に日本法関連資料室を開き日独法律家の交流に貢献した。また、当時ケルン大学に研究滞在していた石川明(慶応大学教授)によると、松田はこの頃すでに、ベルリンの旧日本大使館建物を修復し文化センターとして活用する構想を抱いていたそうである。同建物は後に修復され、昭和63年(1988年)から日独共同運営のドイツ財団法人ベルリン日独センターの拠点となった。
    昭和51年(1976年)に帰国した松田は図書館短期大学学長に就任し、3年後に図書館情報大学学長となった。この間、ドイツ政府からドイツ連邦共和国功労十字章大綬章を授与されている。また、昭和55年(1980年)には日本ワーグナー協会を設立、理事長に就任している。
    昭和58年(1983年)に図書館情報大学学長を退任した後も、日中人文社会科学交流協会会長や、「日独経済セミナー」の後身事業「日独経済学・社会科学シンポジウム」の日本側代表などを務め、引き続き国際的な学術交流に尽力した。ドイツを訪問するとボンやケルンなどの友人知人を訪ね旧交を温めた。
    併せて財団法人野村学芸財団の活動に力を注いだ。野村学芸財団は、昭和38年(1983年)松田の岳父野村胡堂の出捐で設立された公益法人で、胡堂の出身地岩手県を含む東北地方出身の若者への奨学金支給やドイツ人学生の訪日支援などの教育支援活動を実施していた。松田は財団の理事として妻とともに毎年の奨学生を自宅に招くなど親身に若者の世話をした。晩年は胡堂の生地岩手県紫波町に野村胡堂・あらえびす記念館を作ることに心血を注いだ。記念館は平成7年(1995年)6月に開館し、松田も病躯を押して晴の式典に出席し挨拶を述べた。同年11月9日肺梗塞にて逝去。享年84。正四位勲二等瑞宝章を追贈された。日独を結ぶ研究教育活動、信仰、音楽、信州の農民や東北の若者への支援など多岐にわたる活動に尽くし、多くの人々に慕われた生涯であった。
(敬称略。本稿執筆に際し、住川碧(みどり)、岩切恵美、酒田朱實(あけみ)、清水陽一、小島基の皆様に貴重な助言や協力を賜りました。記して感謝申し上げます。)

写真は著者の仲介で、松田先生のご長女住川碧さんよりご提供いただきました。

Foto von

坂戸

著者紹介

1948年生。1972年国際交流基金職員。海外での勤務はタイ、ドイツ、米国。うち1999年から2002年は在独日本大使館公使兼ケルン日本文化会館館長。2005年~2007年は在ニューオリンズ日本国総領事館総領事。2006年ドイツ連邦共和国功労十字章小綬章受章。2011年国際交流基金退職。2012年~2017年ドイツ財団法人ベルリン日独センター副事務総長。