ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。
ベルリン日独センターから「日独の友好関係に大きく貢献した人」についての執筆依頼が舞い込んだとき、小生の念頭にすぐさま浮かんだのは、前ケルン市立東アジア美術館館長で、ケルン大学教授であったロジャー・ゲッパー(Roger Goepper)さんでした。
ゲッパー先生は日本美術の専門家ではありませんでしたが、日本美術の全域、特に密教美術に大変造詣が深い方で、館長時代には限られた予算をやり繰りして、ほとんど毎年のように日本美術のさまざまな様相、局面を展覧会の形で紹介され、ドイツにおける日本美術理解に大きく貢献されました。また展覧会のみならず、その卓越した日本美術についての理解と、きわめて雄弁な話術力を駆使されて、日本美術のさまざまな分野について頻繁に講演され、聴衆を魅了されました。
ゲッパー先生はまた日本の美術研究者との交際も広く深く、特に東京・京都・奈良の国立博物館および文化庁関係者とは密に親交され、ゲッパー先生の引退興業とも言える1988年に開催された「密教美術展」の企画に際しては、小生も及ばずながら文化庁、東京国立博物館、奈良国立博物館関係者を訪問して協力を呼び掛けましたが、いずれも「ゲッパー先生の引退記念の展覧会であれば」と全面的に快く協力され、関連するお寺さんや博物館、美術館関係者を直接口説いて、普通なら絶対に門外不出のような美術品も出品され、重要文化財がずらりと並ぶ、日本でも到底見られない素晴らしい密教美術展が実現しました。
ゲッパー先生はお母様がイギリス人だった由で、それでロジャーという余りドイツ人らしからぬお名前の由伺っています。大変ハンサムな方で、美声。堂々とした姿で、奥様はさぞ気を揉んだのでは、と思いたくなるほど女性ファンが多かったです。わが家内もゲッパー先生素敵などとのたまっておりました。(笑)
ベルリン日独センターの前に小生が勤務していた国際交流基金は、国際文化交流事業を通じて日本に対する諸外国の理解を深め、国際相互理解を増進することを目的としており、1969年9月にドイツ支部としてケルン日本文化会館がケルン市に設立されましたが、その隣にケルン市立東アジア美術館が新装移転してまもなくの1979年1月に開催した日本木彫展が、ケルン市立東アジア美術館と国際交流基金、ケルン日本文化会館との密接な協力関係のはじまりでした。
日本木彫展は日本の彫刻美術の系譜を奈良時代から、平安、鎌倉とたどり江戸期の円空仏に至るまで示したもので、大きな反響を呼びました。本展覧会はその後チューリッヒのリートベルク美術館、ブリュッセルの王立美術歴史博物館と巡回し、大きな成功を収めました。この展覧会のお陰で我々は、ゲッパー先生の長年の親友でもあるリートベルク美術館のヘルムート・ブリンカー館長(Helmut Brinker)および、ブラッセルのシャンタル・コジレフ博士(Chantal Kozyreff)と良い関係を構築することができ、その後の日本美術の普及を円滑に進める大きな足掛かりを得たと言えます。
筆者(右)がケルン日本文化会館館長を退任した日にゲッパー先生(中央)とともに
写真提供:ケルン日本文化会館
国際交流基金は日本画、また洋画の海外への紹介は、近代日本の絵画美術の動向を示す上で不可欠であるとの認識のもとに、その企画実現化をかねてより検討していました。ゲッパー館長というまたとない日本美術の理解者の協力を取り付けて、その実現を図るよう基金本部から会館に指令が来たのは1980年なかば頃だったかと記憶しています。
会館の事業担当であった小生はゲッパー館長と交渉を重ね、日本画展は確か1982年春、洋画展は1985年6月から7月にかけてケルン市立東アジア美術館でそれぞれ実現しました。日本画展は狩野芳崖から始めて横山大観、菱田春草、小林古径、速水御舟、村上華岳から伊東深水に至るまで明治、大正、昭和三代にわたる日本画壇を代表する画家の名作を一堂に展示したものでした。この日本画展もそれなりの反響を得ましたが、西洋近代美術、特に印象派以降の絵画が日本美術界に与えた大きな衝撃とそれに対抗した日本の絵画美術の格闘の理解が十分に深まったかというと、残念ながら大きなクエスチョンマークがついた感を受けざるを得ませんでした。
反対に洋画展は日本画展よりもっとリスクが大きく、所詮西洋近代美術の摸倣と揶揄されかねないと危惧しておりましたが、高橋由一に始まって黒田清輝、青木繁、浅井忠、藤島武二から萬鉄五郎、岸田劉生、藤田嗣治等々の重要文化財5点――当時日本近代洋画作品で重要文化財に指定されていたのは、確か6点のみだったと記憶――を含む日本でも到底実現不可能のような名品、優品のラインアップで――これはキュレーションを担当された東京国立近代美術館、神奈川近代美術館、ブリジストン美術館のご尽力とご配慮の賜物で――大変内容の濃い展覧会となったことが大きな要因ですが、ゲッパー先生の数回にわたる講演や地元紙に対する懇切なブリーフィングが大きな効果を挙げたかと思います。
上述のようにゲッパー先生は日独の美術交流、文化交流に大変な功績があった方でしたので、国際交流基金から国際交流基金賞も受賞されました。2011年に86歳で亡くなりましたが、誠に惜しい方を亡くしたものだと思います。
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著者紹介:清水陽一――日独交流の懸け橋をわたる人
1943年北京生まれ。国際基督教大学、マールブルク大学で学ぶ。1964年外務省入省、1975年から2002年まで国際交流基金の一員として国際文化交流に従事。ケルン日本文化会館館長、在ミュンヘン日本国総領事などを歴任し、2009年4月から2012年3月までベルリン日独センター副事務総長を務める。在任中の2011年は「日独交流150周年」に当たり、長年の夢であった北斎展のドイツでの実現に尽力。マルティン・グロピウス・バウで開催された同展は、版本、肉筆画、版画など展示作品441点(うち429点は日本からの出展)で欧州における今世紀最大級の北斎展となった。 |
タイトル写真は1988年9月ケルン市東アジア美術館における「密教美術」展オープニング。右から二番目がゲッパー館長(当時)。