ベルリン日独センターは日独交流160周年を記念し、リレー❤︎エッセイ「Brückengängerinnen und Brückengänger 日独交流の懸け橋をわたる人・わたった人」をはじめました。このリレー❤︎エッセイでは、先人の『Brückenbauer 日独交流の架け橋を築いた人々』(ベルリン日独センター&日独協会発行、2005年)が培った日独友好関係をさらに発展させた人物、そして現在、日独交流に携わっている人物を取り上げます。著名な方々だけではなく一般の方々も取り上げていきますので、ご期待ください!なお、エッセイの執筆はベルリン日独センターの現職員や元職員だけでなく、ひろくベルリン日独センターと関わりのある方々にもお声がけしています。
2010年7月23日に宮澤浩一が亡くなってから一年後、独日法律家協会とフランクフルトのゲーテ大学は、同大学を会場に「宮澤浩一教授追悼コロキアム」を開催した(2011年9月29日)。その席上、刑法学者のヴィンフリート・ハッセマー判事(Prof. Dr. Winfried HASSEMER(1940年~2014年)、2002年から2008年まで独連邦憲法裁判所副長官)は次のようにスピーチした。
ドイツの観点および法学の観点からみると、宮澤浩一は日独間の懸け橋を築いた偉大な人物のひとりであるが、他の多くの人とは異なり橋を築いただけでなく、その後も橋を維持し、修理し、手入れをしつづけた数少ない人物のひとりでもある。宮澤は地理的にも、文化的にも、そして学術的にも、つまりほとんど普遍的に橋の保守に手を尽くした。本日のコロキアムは宮澤のそのような活動に関する話で持ちきりだが、宮澤がこのような活動を為し得たのは、自身の学者人生を肩書に捧げたり、試行錯誤を放棄するような細かい人間ではなかったからである。その逆で、宮澤は行動し、探究し、計画を立てる人間であり、学者であった。そうすることで多くの後進を感化し、感銘を与えた。宮澤がいなかったならば日本とドイツの法学だけでなく、法学全体がはるかに貧しいものであったであろう。
ハッセマーの言葉に橋を掛け、橋を渡りつづけた人物・宮澤浩一の最も重要な側面が表れているが、これだけで宮澤を語り尽くすことはもちろんできない。1930年(昭和5年)5月23日生まれの宮澤は幼少のころからドイツ語に触れていたが、それは学校で学んだものではなく、余暇にドイツ歌曲を歌うのが好きだった父親(富士銀行数寄屋橋支店長の宮澤義衛)および母親(ピアニストの宮澤八千代)の影響によるものである。「子どものころに聞いたシューベルトやシューマンの歌が強く印象に残っている」と宮澤は常に語っていた。
宮澤は1955年3月に慶応義塾大学大学院法学研究科修士課程を修了後すぐに法学部助手となるが、在学時に熱心にドイツ語の勉強をつづけていたためドイツ学術交流会(DAAD)の奨学金を得て1957年から1959年までハイデルベルク大学に留学する機会を得てドイツの法律を学んだ。日本帰国時にはドイツ語が堪能なドイツ法学の専門家となっており、1960年に法学部助教授に任命され、1966年に法学博士号を取得して36歳の若さで法学部教授に就任した。
慶応義塾大学における宮澤の仕事振りについては、教え子であり後継者である井田良(慶應義塾大学名誉教授)が次のように語っている。
1960年代、日本でも刑法の全面改正が議論されていた。宮澤先生はドイツ連邦共和国の改革論議の紹介や、重要な法案や有力な論説の翻訳をたびたび依頼されていた。宮澤先生はその翻訳作業を通じて、また、度重なるドイツ滞在を通じて、特にオルタナティブ・プロフェッサーと呼ばれる教授陣が提唱するリベラルな刑事政策を身につけた。また、日本では特に議論しにくい2件の問題について――死刑廃止および性犯罪の刑法改正について――躊躇ことなく明確な見解を示した。
宮澤が多大な時間と労力を費やして作成したドイツ刑法学者の伝記および書誌はインターネットのない当時、日独の刑法学者が研究者や出版物について調べるときの欠かせない資料となり、20版まで発行された。
宮澤が執筆した広範囲にわたる学術論文や国際的なつながりをここですべて紹介することはできないが、忘れてはならないのは独日刑法コロキウムを創設(1988年にケルンで初回会合)したことと、世界被害者学会(World Society of Victimology)と世界犯罪学会(World Society of Criminology)の会長を務めたことである。
宮澤浩一はさまざまな表彰を受けている。なかでも日本およびドイツにおいて宮澤を称える膨大な記念出版が数冊作成されたことと、ドイツ連邦大統領からドイツ連邦共和国一等功労十字章を授与されたことを特筆したい。
最後に、友人としての宮澤浩一について、また独日法律家協会にとっての宮澤の存在について個人的な話を少し述べる。
すべては1984年秋のある夜半遅くの一本の電話から始まった。当時私は交換判事として日本の最高裁判所に派遣され、東京に滞在していた。それを伝え聞いた宮澤が電話をよこし、翌日曜日に鎌倉の自宅に来ないかと誘われたのである。その10時間後、鎌倉訪問から東京に戻った私は宮澤の虜になっていた。好感溢れるオープンな態度と、そしてなによりも豊富な知識と情報に魅了されたのである。宮澤はいわば「人釣り人」であり、短時間で人を惹きつけることができる人だった。そして、その後幾度も気づいたように、宮澤に「釣られた」のは決して私ひとりではなかったのである。
この最初の出会いの記述を読んでいただければ、宮澤浩一が、私たちドイツ人が日本人に関して抱いてきた先入観に全く合致しなないことがお分かりいただけたと思う。日本人は言葉数が少なく閉鎖的と思われがちだが、宮澤はそうではなく、人に歩み寄り、自分の意見を堂々と述べ、社交的だった。
1984年に交換判事として日本を訪れた私は、独日法律家協会を設立する可能性を探るという確固とした目的をもっていた。ここで宮澤浩一に出会えたのは、まさに幸運の女神に出会ったようなものである。鎌倉で初めて出会ったその日曜日にすでに二人で可能な戦略を話し合ったのである。独日法律家協会の設立は決して目新しいアイデアではなかったが、宮澤は最初からオープンにこのアイデアを受け入れてくれた。そして、独日法律家協会の設立を熱心に提唱するようになり、あらゆる協力を約束してくれただけでなく、実際にその後数年にわたり惜しみなく協力してくれたのである。宮澤は独日法律家協会の38人の創立メンバーのひとりで、本協会は現在では信じられないことに700人近くの会員を抱える大所帯に成長した。独日法律家協会の評議会(Kuratorium)を設立した際には、宮澤は評議員としての任命を受諾してくれ、ハンブルクで評議会の定例会合を開催する際には必ず参加してくれた。その際、もちろん旅費を請求することはなく、逆にシンポジウムを開催するための寄付金を募集したときにはいつでも応じてくれたことも特筆する。
また、慶應義塾大学の同僚をはじめ日本およびドイツで独日法律家協会への加盟を呼びかけ、多くのイベントにおいてスピーカーとして協力してくれた。さらに、ハンブルグのマックス・プランク研究所と共同で発行している「Zeitschrift für Japanisches Recht」(日本法律ジャーナル、Heymanns-Verlag 出版)にも定期的に寄稿してくれた。
つまり、橋を渡して橋の維持に努めた宮澤浩一がいなければ独日法律家協会は今のような形で設立されなかったであろうし、宮澤の不断の協力がなければ、ここまで発展もしなかったのである。上述の一本の電話は私自身にとってだけでなく、独日法律家協会にも大きな恩恵をもたらしたのである。
ホルドグリューンによるグロテア先生の紹介
グロテア先生が初めて日本を訪れたのは1966年のことでした。日本のさまざまな企業で二ヶ月間にわたる研修を受けた総勢100人のドイツ人経済学部生のひとりだったのです。これは、グロテア先生が法律だけでなく、経済も専攻していたからこそ生まれたチャンスで、振り返ってみると、これは実に幸いなことでした。グロテア先生は研修旅行を通じて日本という国、そこで暮らす人々、そして日本の大企業を知ることができ、強い印象を受けたため、帰国後すぐにハンブルク独日協会の会員となり、現在もなお会員であられるからです。
ベルリン日独センターと独日法律家協会は30年以上にわたる信頼関係を築いており、これまでに数多くの会議系事業を共同で実施してきました。
写真はすべて著者提供
訳・ベルリン日独センター